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境界・限界・曖昧
例えば、文章を書くときにそれを「客観的」に書こうと思うのならば
データなりをあつめて誰が見ても同一とわかるようなモノにすれば
それは客観的な文章ということができるだろう。

例えば、車。
車を客観的に文章化するのであれば車のサイズ等の数値を書き連ねれば良い。
そうすることで数値から車というモノを文章化することができる。

しかし、それは文章であっても表現がないためカタログにすぎない。

同様に、ある製本化された小説を読み、それを客観的に叙述することを考える。
例えば「この小説には「さ」という文字が841回使われており…」と書くとする。

確かに、それはその小説を客観的に叙述したモノかも知れないが
それはあくまでデータであり、そこから逆算的にその小説が再構築されるわけでもない。

そうなると、あるモノを客観的に叙述するというのはどういうことだろうか。

どうしても、そこには主観が混入してしまう。
逆に云えば、主観が混入しない文章、特に感想というものは存在し得ない。
主観が混入し得るからこそ、自分が書いた文章と判別でき、感想というモノが書き上がる。

では、そこで、限りなく主観を削いでいき、それを限りなく0に近づけていくとどうだろう。

ほぼ主観ゼロの文章が理屈の上では成立することになる。

しかし、全く持って想像できない。
そもそもそれが文章としての意味を持っているのか、ただの文字の羅列なのか、
数値が載っているだけのカタログでしかないのか、どういうものなのかわからない。

そうなってくると、逆にどこまで主観を注ぎ込んでも他人が読みたい文章になるのか。
それが気になる。

感想文が巧い人や、小説の解説を書く人、批評家等等はそういった所のバランスが巧いのだろう。

そうに違いない。


ということを、飛浩隆 "自生の夢"を読みつつ、カップ麺に注ぐお湯が沸くのを待ちながら考えた。

カップ麺は、安っぽい味ながらも空腹のお腹にとって見たら非常に美味しく感じられた。
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コメント
from: ウブロ コピー   2012/12/25 2:18 PM
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